2011年 03月 30日
都知事選挙公報、石原「トリプル・ゼロ」の件 |
認知症ゼロ・寝たきりゼロ・孤独死ゼロのトリプル・ゼロ社会を「東京ルール」で実現します。
石原知事は(29日の記者会見で)「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」と指摘。(時事通信社)
仮設トイレや警察官が間に合わないという理由で花見禁止と言うならまだしも理解できるのだが、花見を自粛してもこれっぽっちも被災者のメリットにはならないし、なまじ何かを我慢することで「痛みを分かち合い」良いことをしたような自己満足が得られるぶん、たちが悪い(東京電力管外で節電している人もそう。省エネにはなるけど計画停電の目的とは関係ない)。こんなことしてると自粛ムードで経済がいっそう停滞するだけだ。
さらに「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語った。(時事通信社)
戦時を美化・賛美するようになっちゃおしまいだよ。自分を抑え、こらえれば、精神力で認知症や寝たきりや孤独死が防げるとでも?
弱者も安心して幸せに暮らせるよう努力するのが政治の役目ではないの?
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いまちょっと作者もタイトルも咄嗟に出てこないのだが、『現代東欧幻想小説』あたり(?)に載っていたある短編を思い出した。
ある村では長年一人の死者も出ていない、という噂を聞きつけた男が、その村ではさぞかしみんな健康で長寿で幸せに暮らしているに違いないと思いこみ、その村を訪れる。すると案に相違して、村には病気の老人しかおらず、陰鬱な雰囲気に包まれている。よくよく話を聞いてみると、こういうことだ。若くて健康な人たちはとっくによそへ出ていってしまい、残ったのは自力では動けない老人ばかり。彼らは一生この村で苦労してきたから、死ぬときくらいせめてこの村の外で死なせてあげたいと、死期の迫った村人を救急車が村の外へ運んでいくのであった。
by come-and-go
| 2011-03-30 23:55
| 考えた